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東京高等裁判所 昭和29年(ネ)664号 判決 1958年7月17日

控訴人 佐藤喜久雄

被控訴人 石川清八

主文

原判決をつぎのとおり変更する。

新潟県東蒲原郡上川村大字七名字戸屋一二四一番附近県道柴倉線に架設してある木橋向つて右詰手前橋台の隅角を基点としてこれより三一六度三〇分、七間五分五厘の地点を第一基点とし、これより三三七度、二七間の地点を第二基点とし、これより三三一度、二六間五厘の地点を第三基点とし、これより九一度二〇分、三間五分五厘の地点を(イ)点とし、(イ)点より四五度、三間三分二厘の地点を(ロ)点とし、(ロ)点より四四度四〇分、一〇間一分の地点を(ハ)点とし、(ハ)点より三〇九度四〇分、七間五分の地点を(ニ)点とし、(ニ)点より二八九度四〇分、六間二分の地点を(ホ)点とし、(ホ)点より一八六度一〇分、七間一分五厘の地点を(ヘ)点とし、(ヘ)点より二二六度一〇分、六間一分五厘の地点を(ト)点とし、(ト)点より一三四度一〇分、四間三分の地点を(チ)点とし、(チ)点より七〇度四〇分、二間二分五厘の地点を(リ)点として、右(イ)ないし(リ)点及び(イ)点を順次連結した直線で囲まれた土地につき、控訴人が所有権を有することを確認する。

被控訴人は控訴人に対し金九万四千百円並びにこれに対する昭和二十七年八月一日から支払ずみまで年五分の割合の金員を支払え。

控訴人のその余の請求を棄却する。

訴訟費用は、第一、二審とも全部被控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は、「原判決を取り消す。主文第二項掲記の土地につき控訴人が所有権を有することを確認する。被控訴人は控訴人に対し金九万九千五百九十五円並びにこれに対する昭和二十七年八月一日から支払ずみまで年五分に相当する金員を支払え。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴代理人は、控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の事実上の陳述は、被控訴代理人において、「(一)仮りに本件係争地域が被控訴人所有の甲一、二四六番の土地に該当するものでないとしても、字戸屋甲一、二五六番の土地にあたるものであつて、右甲一、二五六番の土地は、もと石川元蔵の所有で、その後被控訴人が買い受け、現在これを所有し、かつ占有しているものである。(二)被控訴人は、当審における検証のとき、「本件土地は公簿上同所甲一、二四六番原野にして、その地上立木は石川元蔵が植林したものである。」と主張したが、石川元蔵とあるのを、石川辰五郎と訂正する。ただし、本件土地が甲一、二五六番に該当するものとすれば、地上立木は石川元蔵が植林したものである。」と述べた外、原判決事実摘示記載のとおりであるから、ここにこれを引用する。

証拠として、控訴代理人は、甲第一ないし第四号証を提出し、原審並びに当審証人佐藤文作、波田野正光、ハナヱこと石川はなえ、石川留七、原審証人渡部音松の各証言(ただし証人石川留七の原審における証言は第一、二回共)、原審並びに当審における原告(控訴人)本人の供述(ただし当審は第一、二回共)および検証の結果、原審鑑定人武田太郎、同清野力の鑑定の結果を援用し、乙第一、二号証、第四ないし第六号証、第七号証の一、二、第十ないし第十二号証の成立を認める、その余の乙各号証の成立は不知、と述べ、被控訴代理人は、乙第一ないし第六号証、第七、第八号証の各一、二、第九ないし第十二号証を提出し、原審並びに当審証人石川平八、土屋富栄、石川翠、石川源次郎、豊島良吾、石川政応、原審証人渡部貞美、当審証人渡部栄吉の各証言、原審証人渡部音松の証言中更正図作成に関する部分並びに乙第三号証の成立に関する部分、原審並びに当審(第一、二回)の被告(被控訴人)本人尋問の結果、原審並びに当審の検証の結果、原審鑑定人清野力、同三国晴康の各鑑定の結果を援用し、甲第一号証、第三、第四号証の成立を認める、同第二号証の成立は不知、と述べた。

理由

一、控訴人の所有権を主張する土地について。

原審並びに当審における検証の結果、原審鑑定人清野力の鑑定の結果、成立に争のない甲第三号証、原審証人波田野正光の証言によつて真正に成立したと認める甲第二号証、原審並びに当審証人波田野正光、佐藤文作の各証言、原審並びに当審(第一、二回)の控訴人(原告)本人尋問の結果を綜合すれば、波田野正光は、昭和十六年七月頃石川栄から主文第二項掲記の土地(以下本件土地と呼ぶ)を上川村(旧名、東川村)大字七名字戸屋甲一、二五五番、原野二畝十九歩にあたる土地として現場について案内を受け、本件土地の境界を確認した上、当時登記簿上右原野の所有者であつた本田富吉から本件土地をその地上の立木と共に買い受け、昭和十八年八月十七日妻波田野リヨの名義で右原野につき所有権移転登記を経由し、本件土地の引渡を受けた後、昭和十八年九月頃波田野正光は、本件土地の西南の境界に添つて生立していた杉立木(林道より本件土地に向つて登つた手前側のもの)、本件土地の東南の境界に添つて生立していた杉立木(林道から本件土地に向つて登つた右側の境界のもの)には、地上約四尺附近の樹皮を削つて、木材用の墨を用い<正>と墨書し、波田野正光の所有林の境界にある立木であることを明らかにしたが、本件土地の西北側の隣地は雑草がしげつていたのみならず、本件土地が西北の隣地(林道から登つて左側)よりも一段低くなつて境界が明らかであり、本件土地の東北側の隣地(林道から登つて奥の隣地)との間には急傾斜の斜面があつて境界が判然としていたため、その境界の立木には明認方法を施さなかつたこと、ついで波田野正光は、昭和十八年二月頃本件土地をその地上の立木と共に控訴人に対し、控訴人の父佐藤喜市を控訴人の代理人として、売り渡し、昭和十九年一月十八日右甲一、二五五番の土地につきその旨の登記を経由すると共に、同年四月頃控訴人代理人佐藤喜市を本件土地の現場に案内して、本件土地並びに地上の立木を控訴人に引き渡し、佐藤喜市は本件土地上の立木を一本ごとに測定してこれを手帳(甲第二号証)に書き入れ、佐藤喜市は、その後昭和十九年中控訴人を本件土地の現場に案内して、本件土地の境界を指示したことを認めることができる。それ故、本件土地は、控訴人としては、これが字戸屋甲一、二五五番原野二畝十九歩にあたる土地として、これを波田野正光より買い受け、登記簿上の所有名義人波田野リヨより所有権移転登記を経由し、かつ波田野正光より引渡を受け、所有の意思をもつて占有してきたものであることは疑を容れないところである。

二、本件土地の地番について。

控訴人が昭和十八年十二月頃波田野正光から本件土地を上川村(当時は旧名で東川村)大字七名、字戸屋甲一、二五五番原野二畝十九歩であると告げられてこれを買い受け、昭和十九年一月十八日登記簿上右地番の土地につき所有権移転登記を経由したことは、前段認定のとおりである。

被控訴人は、本件土地とほぼ境界を同じくする土地(ごく僅小の境界線の差違があるが、大体において同一土地というを妨げない。)の地番を、さきには、右同字甲一、二四六番原野であると主張し、さらに当審に至つて、予備的に一、二五六番である、と主張しているので、成立に争のない甲第一号証(旧東川村役場備付の更正図の認証謄本)及び原審並びに当審における検証の結果を綜合して考えるのに、当審において現場において実地にあたつた結果、(一)本件土地の北側に同字甲一、二五四番が隣接することは当事者間に争なく、(二)当審検証に際しては、本件土地の東側隣接地が同字甲一、二五六番であることを被控訴人は認め、(もつともその後主張を予備的に変更した。)、(三)同字甲一、二四九番、同字甲一、二四七番がそれぞれ本件土地の西側に隣接すること、並びに甲一、二四七番の土地が訴外渡部銀重郎の所有であることについて当事者間に争なく、(四)同字甲一、二四八番が同字甲一、二四九番の西側に隣接することについて当事者間に争なく、以上当事者間に争のない(一)ないし(四)の隣接地と、甲第一号証の更正図と対照するときは、本件土地は、字戸屋甲一、二五五番原野二畝十九歩として更正図に表示されている土地であることは、一点の疑を容れる余地がない。

被控訴人は、甲第一号証の更正図には誤があつて、信用することができない、と主張しているけれども、いやしくも村役場備付の公図である以上、一応の推定力を有するものと認定するのが相当であり、本件土地の隣接地が、被控訴人所有の同字甲一、二四六番(被控訴人が第一次的に本件土地の地番であると主張するもの)を除き、すべて更正図に示された地番の配置と一致している以上、更正図上本件土地の位置に相当する地番をもつて、本件土地の地番と認定するのが相当である。

原審証人渡部音松の証言並びに原審鑑定人三国晴康の鑑定の結果により真正に成立したと認める乙第三号証によれば、更正図に誤があることは認められるけれども、更正図の地番配置までがすべて誤であるとは認められない。

さらに、被控訴人が当審に至つて提出した乙第八号証の一、二、同第九号証が仮に真正に成立したものとしても、いずれも私人の手中にあるもので、これらを根拠として現に村役場に備えつけてある更正図(甲第一号証)の地番配置が誤りであると結論することは相当でない。しかのみならず右乙第八号証の一、二、同第九号証が図面としていかなる権威を有するものであるかも知る由もない。

その他本件一切の証拠によるも、本件土地およびその附近の地番配置についての甲第一号証(更正図)の推定力を覆すに足る資料は存在しない。

右甲第一号証の更正図ならびに土地台帳の写、並びに前段一において認定した控訴人が本件土地の引渡を受けるまでの経過を合わせ考えると、本件土地の地番が公簿上、字戸屋甲一、二五五番原野二畝十九歩で、原審鑑定人清野力の鑑定の結果によれば、実測四畝十一歩の面積を有するものと認められる。

そうすれば、本件土地は、登記簿上の所有者である控訴人の所有に属するものと、一応推定すべきものである。

三、被控訴人の時効取得の主張について。

被控訴人は、大正二年十月三日被控訴人の先代石川辰五郎から本件土地の贈与を受けて、その時から善意、無過失、平穏公然に占有してきたと主張する。しかしながら原審(第二回)並びに当審証人石川留七の証言によれば、被控訴人が本件土地の手入を初めたのは、本件土地の前所有者石川千里の死亡した後であることが認められるところ、成立に争のない乙第五号証によれば、石川千里の死亡したのは昭和十四年五月二日であることが認められるから、被控訴人の本件土地の占有の起算点は、昭和十四年五月二日以前に遡らないものと認められる。しかして被控訴人が本件土地の前所有者石川千里の死亡後に本件土地の占有を開始したことにつき、何ら首肯し得る理由を主張しないから、同人の本件土地の占有が善意無過失のものとは到底認めることができない。しかのみならず、被控訴人が本件土地の手入をはじめた後昭和十八年九月頃当時の本件土地の所有者波田野リヨの夫正光が、立木に明認方法を施したことは前段認定のとおりであるから、この時において、被控訴人の占有は中断されたものというべきである。なお、原審並びに当審(第一回)の被告(被控訴人)の本人尋問の結果中に、被控訴人が昭和二十四、五年頃本件土地の六、七本の立木に<正>の墨書を発見したが、これを何人かの悪戯と考えたという供述があるけれども、原審証人土屋富栄の証言によつて認められるところの、被控訴人が愛林家で、その所有の山をよく手入していることから考えても、被控訴人が<正>の墨書を発見したのが昭和二十四、五年頃であり、かつこれを悪戯と考えたとの被控訴人の供述は信用できない。原審証人波田野正光の証言、原審における検証の結果を綜合すれば、波田野正光が<正>の墨書をした後、被控訴人は<正>の印を削つて8の刻印を入れ、波田野正光は、さらにその上に×のしるしを刃物で刻み込んだことが認められるから、被控訴人は、昭和十八年九月<正>の墨書がなされてから、遠からざる間に、何人かが自己の所有する立木の明認方法を施し、本件土地を占有したことを知つたものと推定して誤りがないであろう。そして他に右推定を覆す証拠はない。

なお、原審並びに当審証人石川平八、石川翠、石川源次郎の各証言、原審並びに当審(第一、二回)の被告(被控訴人)本人尋問の結果中、以上の認定事実に反する部分は信用しない。その他右認定を覆すに足る資料はない。

そうすれば、被控訴人の本件土地に対する占有は、いわゆる悪意の占有と認むべく、控訴人の本訴提起前に右占有が二十年間継続したと認められる証拠はないから、被控訴人の主張する取得時効は未だ完成するに至らずして控訴人の本訴提起に至つたというべきである。従つて被控訴人の取得時効の抗弁は、理由がないものとして排斥を免れない。

四、被控訴人の損害賠償の請求について。

以上の説示によれば、本件土地は、少くとも昭和十九年一月十八日から控訴人の所有に属するものであつて、従つてその地上に生立する立木もまた控訴人の所有に属することが明らかである。

しかして被控訴人が本件地上の杉立木中、昭和二十三年秋、五十年生のもの一本、昭和二十五年秋五十年生のもの一本、昭和二十六年八月二十四日頃二本を伐採したこと、昭和二十六年伐採の二本中一本が八十年生であることは当事者間争なく、昭和二十六年八月伐採の他の一本が樹齢五十七年と認むべきことは、原審鑑定人武田太郎の鑑定の結果によつて明らかである。

しかして以上、二、三において認定したところに従えば、被控訴人は右杉立木四本が他人の所有に属することを知りながら、これを伐採したものと認定するのが相当である。それ故、被控訴人が右伐採当時右立木の所有者が控訴人であることを知らなかつたとしても、およそ他人の所有権を侵害する故意が認められる限り、被控訴人はこれによつて所有者たる控訴人が受けた損害を賠償するの責あるものというべきである。(最高裁判所昭和三二年三月五日言渡判決、民集一一巻三号三九五頁参照)

よつて損害賠償の額について考えるに、控訴人は本件伐採立木の昭和二十七年八月当時における時価によつてこれを算定する。およそ不法行為による物の滅失毀損に対する損害賠償の金額は、特段の事由のないかぎり滅失毀損当時の交換価格によつて定めるのが相当であるが、本件の場合、被控訴人が不法に伐採した立木は地上に生立していたものであつて、しかもかかる地上に生立した立木は比較的取引が頻繁でなく、これが所有者たる控訴人において早急にこれを伐採売却しなければならないような事情も見えないので、反証のないかぎりかかる不法伐採がなかつたならば、おそらく控訴人は昭和二十七年八月当時まで本件立木を保有し得たと認めるを相当とするのみならず、他面同時に本件立木伐採当時はいまだ諸物価が続騰する状況にあつたことは当裁判所に顕著なところであつてて、被控訴人においてもかかる状況の下において本件立木の価格の騰貴を予見していたか少くとも予見しうべかりし場合であつたと認めるを相当とすべく、従つて控訴人が本件損害賠償額を算定するにあたり本件伐採立木の昭和二十七年八月当時における推定時価によつたことはあながちこれを不当というべきでない。そして原審鑑定人武田太郎の鑑定の結果によれば本件伐採立木の昭和二十七年八月当時における推定山元価格は金九万四千百円四十五銭(一石につき金千六百四十円八十一銭石数は控訴人主張の五十七石三斗五升として計算した。なお鑑定書の九万九千五百九十五円は計算上の過誤に基く。)であることが明らかであるので、被控訴人は控訴人に対し右金額(但し一円未満切捨)並びにこれに対する昭和二十七年八月一日から支払ずみまで年五分の割合の遅延損害金を支払うべき義務あるものというべきである。

五、結論

まず控訴人の本件土地所有権確認の請求について判断するに、控訴人がこれが所有権を有するものと認めるべきことは、前段説示のとおりであり、被控訴人は本件土地につき自己の所有権を主張しているのであるから、控訴人が確認の利益を有することはいうまでもないから、控訴人の本件土地所有権確認の請求はこれを認容すべきであり、また損害賠償の請求については、前段認定の限度において正当として認容すべきもその余は失当として棄却すべきである。

よつて、原判決はこれを変更することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条、第九十二条、第九十六条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 大江保直 猪俣幸一 沖野威)

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